イラスト:思案・反省・諦め— 窓から流れ落ちる雨粒を見つめる若い女性
「思案する人を描いてください」。
この依頼を、私はよく受ける。けれど正直に言うと、かなり厄介だ。
怒りには眉間があり、喜びには口角がある。
感情には、それぞれ“わかりやすい記号”が用意されている。
しかし「考える」には、それがない。
腕組み、顎に手、上目遣い——
いわゆる「考えてますよポーズ」は、漫画や広告が育ててきた文化的産物にすぎない。
現実の人間は、そんなに都合よく思案してくれない。
だから私は、毎回ゼロから“思案のかたち”を探すことになる。
そして皮肉なことに、この決定的なポーズのなさこそが、
思案イラストの需要を広げている理由でもある。
人によって、場面によって、求められる“思案”はまったく違うのだ。
思案を描くとき、私がまず頼りにするのは“目”である。
静かに目と口を閉じ、内側に潜るような表情
一点をじっと見つめ、思考の糸を手繰る視線
遠くを眺め、答えの輪郭を追いかける眼差し
どれも「考えている」ようでいて、意味は微妙に違う。
視線の角度ひとつで、人物の性格や思考の深さまで変わってしまう。
この繊細さが、面倒でもあり、同時に面白くもある。
ときには、私は潔く「?」マークに登場してもらう。
これは逃げではなく、文化的コンテクストを味方につける技術だ。
人は「?」を見ると、ほぼ無意識に
「この人物は考えている」と理解する。
記号は、思考のショートカット。
私にとっては、実務的にも心理的にも、頼もしい味方である。
思案のポーズを描くために、私はまず自分が思案してしまう。
これがなかなか骨が折れる。
「考える人を描くために、私が考えすぎる」——
この堂々巡りは、もはや小さなパラドックスだ。
けれど、こうした“考えすぎ”の時間が、
案外、作品の深みをつくっている気もしている。
曖昧なものを、曖昧なまま描く。
私は、それを嫌いではない。
むしろ、その曖昧さの中にこそ、
人物の気配や性格が静かに滲む。
“思案”という名の霧の中で、
どんな光を灯すのか。
その選択こそが、私の腕の見せどころだ。
今日もまた、私は「思案する人」を描くために、思案している。
この堂々巡りすら、少し愛おしい。