イラスト:菜の花(油菜)の水彩画
春の入り口に立つと、胸がふっと軽くなる瞬間がある。
まだ冷たい風の中に、どこか柔らかな匂いが混じり始める頃だ。
そんな季節の変わり目に、真っ先に目に飛び込んでくるのが
菜の花の、あの圧倒的な黄色である。
畑の縁でも、河川敷でも、
「今年も来ましたよ」と言わんばかりに、遠慮なく光を放つ。
先日、画像生成AIで
菜の花を英語名(rapeseed blossoms)で指定しようとしたところ、
なぜか入力が拒否された。
植物名としては正しい。
意味も文脈も、いたって無害だ。
それでもAIは、単語の一部だけを拾い上げ、
内容を理解する前にシャッターを下ろしてしまった。
文脈ではなく、語彙だけを見る。
意味ではなく、反応だけが先に立つ。
長年、システムや環境依存の挙動と付き合ってきた身としては、
「あるあるだな」と苦笑いするしかなかった。
そんな人間側の事情など知る由もなく、
菜の花は今日も淡々と咲いている。
言葉の誤解も、AIの不器用さも、
検索フィルタの都合も、
一切お構いなしだ。
あの黄色は、ただの色ではない。
冬の重さを押しのけて、
地面の下から光が湧き上がってくるような、
生命そのものの主張だ。
理屈も注釈も不要で、
見れば誰でも「ああ、春だ」とわかる。
菜の花は、説明しない強さを持っている。
AIが間違うたびに、
私たちは技術の限界に気づかされる。
けれど同時に、
自然はいつも、その一歩先を歩いていることも思い出す。
言葉が誤解されようと、
名称が扱いづらかろうと、
春はきちんと訪れ、
菜の花は決まった時期に咲く。
だから私は、
あの日AIに拒否された出来事を、少しだけ気に入っている。
完璧そうに見える技術がつまずき、
何も語らない花が、すべてを語っていたからだ。
春は、いつも静かに、しかし確実にやってくる。
菜の花の黄色は、その最初の合図である。
AIがどう判断しようと、
私たちの心は、その色を見れば自然と軽くなる。
それだけで、十分なのだと思う。